―――もう一度、賢に逢えるなら。


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　太一さんはつかつかと歩み寄り、ベッドで寝ていた僕の両肩を掴んで揺さぶった。うっ、気持ち悪……
「いつになったらお前は俺たちを心配させなくなるんだ？京ちゃんがどれだけ心配してたかわかってんのか！！―――だから、刑事やめろっつっただろう！！」
顔に青筋を立てて畳みかけられる。心配させているのは百も承知の上で、無理やり自分を通してきているのだから殴られても文句は言えない。本気中の本気だ。
「ごめんなさい……」
「ごめんで済んだら警察はいらねーんだよ！！」
警察官の僕を前にして、太一さんが言った。
「―――もう、お兄ちゃん。それぐらいにしてあげて。京さんが困ってるでしょ」
ヒカリさんが宥めてくれる。太一さんは小さく舌打ちをして、僕の肩を掴んだ手を離した。
「一乗寺君も真っ青だし。病人なんだから」
　太一さんは僕の顔を見て「あ」と言った。「そうだな、悪い。つい」
「―――いえ……ごもっともなので……申し訳ありません」
喉元までせり上がってきた胃液を何とか押し戻す。厳密には病人ではないけれど、今目が回って気分が悪いのは本当だった。
「お水飲む？」
　枕元に立って僕たちの様子を見ていた京さんが、サイドテーブルに置いてあったグラスに水を注いで手渡してくれる。
「ありがとう…」
冷たい水を口に含むと吐き気がいくらか楽になった。
「本当に青い顔してるけど、大丈夫？」
返したグラスを受け取りながら、京さんが僕を覗き込む。「うん」

　太一さんが、深々と溜息をつく。
「後で光子郎も来る。お前、光子郎の家でぶっ倒れたから、あいつすっっっげー心配してたんだ。さっき起きたって電話したら、喜んでた」
そうだった。光子郎さんには救急車の手配やらなにやらで世話をかけたようだし、本当に申し訳ないことをした。
　他のみんなにも連絡入れとかないとな、と呟きながら太一さんは上着の内ポケットから携帯を取り出した。 「―――あれ？着信入ってた。誰だ？」
太一さんが画面を覗き込み、スライドさせた。
「ああそっか、大輔―――ってえ！！」
太一さんが叫んで脛を抑えた。隣に立っていたヒカリさんが蹴りを入れたらしい。「バカ」とヒカリさんの唇が動く。大輔の名前を出したせいだということはすぐわかったが、蹴りを入れるほどの禁句だとヒカリさんが感じているのだと思うと気分が沈んだ。
　そういえば、二人を迎えに行くといってから辿り着くまで、なんとなく遅かった気もする。もしかしたら二人は、僕が検査中に大輔の名前を口にしたことをもう京さんから聞かされているのかもしれない。

　気まずい沈黙の中で、ぷっ、と京さんが吹きだした。
「もう。そんなに気使ってくれなくていいのに。私、大丈夫だよ。ヒカリちゃん」
京さんは言った。でも、とヒカリさんが呟く。
　僕が呑気に意識を失っている間、どれだけ京さんが憔悴し、ヒカリさんが彼女を支えていてくれたのかは容易に想像がつく。あらためて思い知り、ぎゅっと唇を噛んだ。

　―――ごめん。でも。

　「―――聞こえてたから」
思わず、僕は京さんに言った。
「え？」
京さんが僕を見る。
「検査してた間、京さんの声、ずっと聞こえてたから。さっき言いそびれたし、伝えられなくてごめん。ずっと泣いてたの、知ってるから―――」

京さんは目を丸くして、それから苦笑した。ベッドの上で僕の両手を握る。
「―――そうなんだ。聞かれてたなんて、恥ずかしいじゃない。やだな、もう。言ってよ、本当」
「ごめん」
僕の手を包む温かさを感じながら彼女に謝る。

　包む力が一瞬、強くなった。
「そっか―――聞こえてたなら、もっと頑張って私が起こしてあげたかったなあ…」
彼女はそう言って握った手の上に額を乗せた。「ごめんね、賢君、―――」
　賢君、の後で京さんは何か呟いたと思う。上手く聞き取れなかったけれど、それよりも。
「…待って京さん。なんで京さんが謝るの？僕が一方的に悪いだけの話に、あなたが謝る必要はないよね」
僕は狼狽えた。怒ってくれていいんだから。謝られるとか、僕の理解の範疇外だ。困る。どう振る舞えばいいのかわからなくなる。
　京さんの後ろでヒカリさんと太一さんが戸惑った顔をしている。きっと僕も同じだ。
「そうだね」
京さんは小さく笑った。
「私、心配ばっかりかける賢君のこと、もっと怒ってもいいよね。一乗寺のお義母さんに言いつけたり、ネットで愚痴言ったり、『実家に戻ります』って手紙残して家出しちゃってもいいくらいだよね。賢君の妻なんだし」
「―――うん。……ごめん」
　いい年をして母に叱られるのも、自分の目に見えないところで夫憎しの晒し者にされるのも井ノ上の両親に深々と頭を下げに行くのも、そんな自分の姿は情けなくてあまり考えたくないけれど、それだけの仕打ちを確かに僕はしていて、弁解の余地もないわけで。

　包んでいた京さんの手がそっと僕から離れた。
「でも、やっぱり私が起こしてあげたかったよ」
静かに、どこか諦めたような笑顔を浮かべた京さんがそう言った。沈んだ空気を和ませるかのように、ヒカリさんが彼女の肩に手を乗せる。
「京さん、休憩室行かない？喫茶コーナーあったし。ね？」
「―――うん、行こうか。喉乾いちゃった。あ、一乗寺のお義母さんに連絡してなかった、大変。―――じゃあ、ちょっと出てくるね」
「あ、うん」
ヒカリさんに促されて京さんは病室を出た。微妙な空気が留まったままの中、後には僕と太一さんが残される。

　扉が閉まるのを見送った後、太一さんはベッド横にあった丸椅子に腰かけ、僕に向き直った。
「悪い。うっかり大輔の名前、出しちまって。京ちゃん、落ち込んでたのになあ……あー、俺間抜けすぎ」
「いえ。―――あの、太一さん。さっき京さんが太一さんたちを迎えに行ったとき、僕が検査中に大輔の名前を口にしたこと、言ってましたか。大輔に呼ばれて目が覚めたことも、少し前に人に聞かされました。多分彼女はそれを見てたと思うんです。だからさっきもあんなことを」
　聞いてみる。

　『―――でも、やっぱり私が起こしてあげたかったよ』
　彼女の声が頭の中で甦る。
「ああ、言ってた。そっか、一乗寺も知ってるんだな。まあお前も無意識に口走ったり反応したりしてるんだろうから、悪気があるわけじゃないってことは京ちゃんだってわかってる。 ―――ただなあ、変なことも言っててさ」
太一さんは頭を掻いた。
「変なこと？」
「なんか以前、お前に大輔と京ちゃんが崖で同時にぶら下がってたら、どっちを先に助けるかって聞いたって話、覚えてるか？お前、京ちゃんだって即答したらしいんだけど」
「ああ…そんなこと、ありましたね。おかしいですか？」
僕は今でも真意のわからない彼女の質問を思い出す。
「いや、おかしくはねーだろ。俺だって嫁さんがいれば多分そうする」
「ですよね？」
「ああ」
　太一さんは相づちを打って少し考え込んだあと、口を開いた。
「京ちゃんが言うには――― 一乗寺が大輔を助けないのは、死んでもいいと思ってるからだってさ」
「え？」
死んでも―――って。
「大輔が、ですか？」
突拍子もないことを言われて聞き返す。
「大輔というか……お前自身？」
「僕？」
ますます訳が分からない。
「京ちゃんが言うにはな、もし京ちゃんが死んだらお前は家のことや子供の世話なんかをするために頑張って生きていくんだろうって。そりゃそうだよな」
「それは当然そうなりますよね」
「でも、大輔が死ぬときは―――お前は一緒に死ぬことを迷わない。だから、大輔のことは助けないんだってさ。正直俺にはよくわかんなかったけど」

　『―――賢君が大輔を助けない理由を、あたしは知ってるわ』

　あの時、彼女はそう言っていた。その答えが。――― 一緒に死ぬことを迷わない。大輔となら。
「馬鹿な。それだと京さんを助けたあと大輔が落ちて死んで、僕は大輔の後を追って死ぬってことになるし、そうなると僕は無責任に家族を残して逝くことになるじゃないですか。矛盾してるでしょう」
反論してしまう。だが、太一さんは何か納得した様子で頷いた。
「あー……そういうことか。そこだな」
「そこ？」
太一さんは僕を指さした。
「きっとそれだな。お前がさっき言った『無責任』ってやつ。京ちゃんが言いたかったのは、そこかあ……ああ、だから泣いちまうんだな。そっか、でもそれは仕方ないよなあ……うん」
一人で納得されても。僕はわからないままなのに。
「どういうことですか。教えてください」
　太一さんは腕組みをして唸った。
「そうだなあ……多分、京ちゃんはお前が彼女と一緒にいるのはある種の責任感からだと思ってるんだろうな」
「責任感？―――だって、それはそうじゃないんですか？結婚してるんだから、夫としての責任は普通あるでしょう」
「大輔とは？」
「大輔とは、って―――彼とは結婚なんてしてないし、子供もいないんだから、そんなこと」
「ただつきあってただけだろ？」
「そうです」
それの何が問題なのか、わからない。
「例えば、お前が大輔とつきあってたとき、周囲に相談することもなく、向こう見ずに大輔を追っかけてアメリカに渡っちまったのは、無責任じゃなかったのか？家族とか世話になってる人間に対して」
「それは―――あの時は、それでいいと思っていたから……皆に迷惑をかけることはわかってたし、申し訳ないとも思ってました。でも、僕はそこまで冷静でいられなかった。子供だった、といえばそれまでですけど」
「うん、だからそういうのってさ。責任がどうこうじゃなく、純粋に好きだから、ってやつだったんじゃねーの？……つか、俺にこんなこと言わせるなよ、恥ずかしすぎて鳥肌立つから」
太一さんが額に手をやった。僕も俯く。
「でも―――でも、所詮それは過去のことです」
過去だと口にしつつも、今の気持ちが100パーセント京さんに向いているとは言いきれないと、さっき僕自身が滝さんにそう答えたばかりだった。過去だと切捨てることに抵抗がないわけじゃない。
「京ちゃんもわかってるんだよ、今のお前のことは。大事にされてるのも知ってる。そう言ってたし。―――だけどなあ」
太一さんは溜息をついた。
「大輔には勝てない。多分、そうも思ってる。だから傷ついてる。……過去に今更張り合う意味なんかないって、ここに来る途中、俺もヒカリも言ったんだけどな。―――過去じゃないって、京ちゃんは言ったんだ。『過去じゃないんだって気が付いちゃったんです、大輔は今でも彼の心の深いところにいて、声が届くんです』ってさ。で、さっきも言ったけど、一乗寺に悪気がないことなんか彼女は百も承知なんだよ。だから大輔のことではお前を責めないだろ？」
　言われれば確かに、二人きりで話していた時も彼女は大輔のことには触れなかった。だから小暮さんと滝さんに聞かされて、僕は驚いたんだ。

　窓の外を眺めながら太一さんが言った。
「どうしようもなく好きだから結婚した。―――京ちゃんはそう思われたかったんじゃないのかな」
「好きですよ！」
「うん。まあ、そうなんだろうな。ただ、一乗寺がそう思っていてそう京ちゃんに伝えても、彼女自身がそれを信じきることができないんだろう。一乗寺というより、京ちゃん自身の気持ちの問題なのかもしれねーなあ……」
　―――京さんの、気持ち。

　「どうして―――僕は京さんの声で目覚めなかったんだろう……そうすれば彼女を今日ほど傷つけずに済んだはずなのに。どうして、大輔は僕を呼べたんだろう……どうして彼が僕に繋がるんだろう」
　僕は俯いて頭を抱えた。―――わかっている。京さんも以前言っていた。否定はしない。
『―――あなたたちは、特別なの』
　隣にいても、いなくても、離れても、別れても。破綻してしまったはずでも。―――その存在を、忘れていても。大輔は僕の―――「特別」だ。
否定できない。

　「太一さん、僕は―――僕もどこかで揺れています。大輔ではなく彼女を選ぶことに迷いはないけれど、僕の中で彼を切捨てることはできない」
そう言って、僕は口をつぐんだ。
「そうか。―――そうかもな。俺もそこまでしろとはいえねーなあ。……お前ら、それだけの仲だったと思ってるし」
太一さんは怒らなかった。
「たとえ大輔がきっかけだとしても、お前が目覚めたこと自体は京ちゃんだって喜んでるんだ。それだけでも今はいいんじゃないかって、俺は思うんだけどな」
考えすぎるなよ、と太一さんは言った。だけど考えなければ余計に彼女を傷つけるのではないだろうか。無意識だったからどうしようもなかった、それは事実だけれど。そこまで今の自分が大輔の存在に寄りかかっていたという自覚もなかったことに戸惑う。

　ふと、京さんがさっき呟いた何か―――聞き取れなかった言葉が突然、頭の中ではっきりと容になった。気が付いた瞬間、僕は息が止まりそうになった。―――彼女は。

　『―――ごめんね、賢君。私、大輔じゃなくて』

　そう言ったのだ。



　　　　　　　　　　　　　　―　続く　―

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2017/10/04
大輔に太一さんから連絡がこないのはこういうことだったのです。

背景画像は「Studio Blue Moon」様より頂戴いたしました。