―――君のことがとても大切だという気持ちを、失わなくてよかった。


****************************



　―――賢君。

　ああ。遠くで京さんの声が聞こえる。これで何度目だろうか。
　「大丈夫だよ」って言ってあげたいのに、彼女の姿が見えない。淡く白っぽい空間の中、僕自身、声が出ない。―――というより、自分の身体も見えない。どこに手足があるのかもわからない。そもそも、今の僕に容があるのかどうかもあやしい。ただ、死んではいないと思うけれど。近い状況なのだろうか。
それなら京さんの囁きに不安が滲むのも当然のことだ。身体があれば、溜息をつきたかった。

　無茶をしないで、って何度も言われているのに。もう諦めてるから、とまで言わせているのに。だからこそ絶対に心配させてはいけないとわかっているのに。

　―――また、泣かせた。彼女の笑顔が大好きなのに。

　苦い気持ちで考える。ここはどこなのだろう。僕はどうなっているのだろう。
　声が聞こえるのだから、京さんは実際には僕の近くにいるのだろう。
　おかしな話だけど、身体の感覚はないのに、時折何かが僕に触れていくのはわかる。
　身体が現実と切り離されたこの感じには、憶えがあった。

　数年前に、SIESTAに取り込まれた時だ。「暗黒の種」が自己増殖のために『僕』を利用しようと僕の身体を奪い、僕の意識は身体を取り返すためにSIESTAの中を漂っていた、あの感じに似ている。血液を媒介にしていたせいか、「流れている」イメージだった。乱暴な方法だったし、身の内に育っていたもう一人の僕は最悪で―――いい思い出ではない。できれば考えたくないけれど―――でも。

　似ている。ならば僕は、またSIESTAに取り込まれているのだろうか。だけど、現在のSIESTAはあの事件の後、ダウングレードされて被験者を戻ってこられないほどの深層意識下には潜らせないようになっているはずだ。僕が現在のSIESTAで定期的に受けている検査でも、意識が身体から分離されるということはなかった。
　もっとも、あえて機能を制限した仕様にしているだけなのだから、解放すればリスクと精度が高いかつてのSIESTAに戻すことは可能で、でもそれは非常手段だと聞いている。今がそうなのかは僕にはわからない。
　まるで夢の中で、誰かの感情の中を漂っているようだ。
　でも、夢特有の曖昧さはない。状況がわからないというだけで、僕は僕としての自我もある。

　この状態に気が付いてからずっと、静かな悲しみと凍った怒りが僕の周りを取り巻いているのを感じる。それは京さんのものでもなく、明らかに僕自身のものでもない。僕のものではないが、理解しようとして僕自身が無意識にわかりやすいものに置き換えようとしているのか、似たような気分を味わった時の記憶が否応なく展開されていく。

　楽しくはない。わざわざ鍵を掛けてある記憶をこじ開けていくのだから。
　その、多くの場面には大輔がいて。
　それらをひとつひとつ、―――おそらく、後悔で―――引き裂かれるような痛みをこらえて閉じていく。囚われないように。
　僕を取り巻くこの思いが、楽しかったり幸せだったりするものならよかったのに。その場合にもたくさんの大輔が現れるだろう。きっと、記憶を閉じるのがためらわれるほど。
　それは幸せ過ぎて、僕は現実逃避してしまうかもしれないから―――充ちているのが負の感情で、むしろよかったのかもしれない。

　感情の接触を繰り返すうちに、どうやら以前SIESTAでもう一人の僕と記憶を侵蝕しあった時とは少し状況が違うようだということがわかってきた。
　誰かの感情は僕の心に触れていくけれど、一瞬重なるだけで僕から何かを奪っていくわけではない。僕が勝手に反応して自分の記憶を開いたり閉じたりしているだけで、そのことについては向こうからは何のリアクションもないからだ。
　それは例えれば映画を見ていて何かの場面に共感する様に似ている。
　僕がどれだけ似たようなことがあったと共感しても、上映されている映画の本編にも主人公達にも何の影響も及ぼさないのと同じだ。

　僕はなぜこんなところにいるのだろう。

　―――賢君。

　また、京さんの声が聞こえる。繰り返し。そして、嗚咽になっていく。
　ごめんね、京さん。本当にごめん。今すぐ抱きしめてあげたいのに。
　その傍らで、僕は開いては閉じ続ける大輔との記憶にも痛みを感じずにいられない。

　―――ごめん、大輔。

　早く戻らなければ。―――早く帰りたい。京さんを抱きしめてあげなければ。
　ここは辛い。これだけ記憶を剥き出しにされると、嫌でも自覚させられる。

　―――大輔に会いたい。

　ただ、一緒にいたいと、こんなにも強く思うなんて。僕は京さんを愛してきた今の自分を否定するのか？―――違う。そうじゃない。ただ、ここにはあの時の自分も同時にいるから。あの時と同じ思いに囚われてしまうだけだ。
　今は京さんを愛している。
　大輔のことは、かつて愛していた。―――今は？僕が今、大輔のことをどう思っているのか、は。

　現在と過去とに心を削られながら、僕は「今」の自分を探す。

　―――ここは辛い。自分を抑えられない。

　帰らなければ。これ以上ここに居続ければ僕はおかしくなってしまいそうだ。早く、帰らなければ。そのためのきっかけを探さなければ。―――ここに来る前、自分が何をしていたのか思い出すんだ。そのくらいの冷静さは失っていないだろう？

　そう、僕は何かをしようとしていた。
　どこかに向かっていた。―――ああ、光子郎さんだ。光子郎さんに大切な話をしようと思って。
　でも、何の話をするつもりだったのか。とても重大なことだったはずだ。

　唐突に、通り抜けた感情に氷の刃で貫かれたような痛みが走る。この感情には触れた憶えがあった。「憎悪」だ。あの―――デジモンの。

　そう気が付いて、連鎖的に全てを思い出した。そして、理解する。僕を今取り巻くこの悲しみや怒りは、僕を襲ったあのデジモンのものだ。
　間接的にではなく、直接的に本体に接触したから、僕はまた影響を受けて―――「拾って」しまったのだろう。
　今回は前回のように怪我を負わされたわけではないが、数日のうちに立て続けに遭遇したことで、ダメージが増幅されているのかもしれない。
　自分が今SIESTAに繋がれているのかどうかはわからないが、あのデジモンから受け取った負のデータに巻き込まれて抜け出せなくなっているらしいことは見当が付いた。

　光子郎さんに会って話している最中に目の前が暗くなった。ダメージを受けると時々あることだから、きっと僕は今回も倒れてしまったんだろう。
　そしてここにきた。

　遡って思い出す。

　―――あのデジモン。

　ワームモンと向かったお台場の公園。突如、空中に自在に開かれたゲート。
　去り際の、「キメラモン」。
　そして―――ゲートの向こうに消えた、あの少年。ゲートを越えた時、彼は―――

　―――デジモンカイザーの姿をしていた。

　僕が見間違えるわけがない。あれは、デジモンカイザーだった。あの子供は一体、なんだ。
　なぜデジモンカイザーの、―――罪に塗れた僕の姿をしている。

　僕の前に現れたのは最初から偶然ではなかったのか？

　―――なぜだ。

　恐れに近い疑問が膨れ上がり、さっきまで僕を翻弄していた負の記憶を凌駕する。

　―――考えなければならないのは、「今」のこと。

　帰らなくては。ただ過去にむかって終わりのない後悔さえしていれば済むような場所で、留まっているわけにはいかない。
　その決心はついたし、迷っている場合ではなかった。だが、帰るといっても、どうやって。
　今まで何度か倒れた時にはここまで覚醒していなかった。どちらかといえば自我があるという点でSIESTAで身体を奪われていた時に近い状態だと思うけれど、あの時は奪っていた側の種が自ら僕の身体から出ていくことで、僕は現実に戻ることができた。今は、そのどちらとも少し違う。どうすればいい。帰るための道が―――

　『―――賢！』

　はっきりと声が聞こえて、僕ははっとした。―――大輔？
　大輔の声だ、と思ったとき。

　―――見つけた。

　大輔ではないが、聞き覚えのある声。―――花屋か。だったらここはやはりSIESTAの中なのか。

　続けざまにパキン、と何かが割れる甲高い音がした。
　そして急に、ザーッという激しい雨のような音が聞こえ始め、同時に、何か強い力で身体を引っ張られる感覚があった。

　いきなり視界が開ける。薄暗い場所だが、今は「見えている」。僕を取り巻く情報が、視覚となり、聴覚となり、触覚となり―――「帰って」きたのがわかった。
　はっ、と強く息を吸う。そして、小さく乱れた呼吸が続く。溺れて、ようやく水から上がったばかりのような息苦しさだ。


　「―――大丈夫かね、一乗寺君」

頭上から声がして、薄暗い場所に柔らかい光が差し込んだ。やはりここはSIESTAの中だったらしい。見覚えのある装置の中に僕は寝かされていた。

「沢中先生……」
視線を向けると、幾分顔色の悪い沢中先生の姿があった。着ていた白衣の胸元を掴んでいる。僕を見て、苦笑した。


「―――問題児を連れ帰るのはなかなか骨が折れるね」



　　　　　　　　　　　　　　―　続く　―

--------------------------------------------------------------------

2017/05/07
そのうち帰れなくなりそうだなあ。

背景画像は「Studio Blue Moon」様より頂戴いたしました。