―――賢と直接会えないのが、こんなに苛立つんだってこと、久しぶりに思い出した。


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　「聞こえてる？」
京さんは僕の顔をじっと見た。「大輔のところに行って、って言ったの」
「なぜ」
ただその疑問しか浮かばない。
「何があったの、京さん。急に―――どうしてそんなこと」
どうして貴女が言うのか。僕に。
「賢君を助けられるかもしれないから」
「助ける？」
「大輔が」
「―――え？」
僕は言葉が見つからないまま、彼女を見る。
「だ、い、す、け、が、よ」
一音一音区切るように言って、京さんが頷いた。
「―――ごめん、言ってる意味がよくわからないんだけど……」
夕食の材料を買いに出て帰ってきたら、突然、大輔に会えと言われたんだ。当然、困惑する。

　今すぐ彼女の目の前から逃げ出したい気分になった。彼女の真意が全くわからない。わからないけど、続きを聞いてはいけない気がした。
「やめよう。やっぱり話さなくていい。僕は何も聞かなかったことにする。―――ワームモン」
　僕は間が持たなくなって、助けを求めるように姿の見えないワームモンを呼んだ。僕が滝さんと家を出る前には子供部屋にいたはずだ。
「ワームモンなら寝てる。翼を寝かしつけてくれててそのまま一緒にベビーベッドで」
京さんが説明する。ワームモンとの話に頼れないのはがっかりした。この気まずさをどうすればいい。
　腰を下ろしたばかりの椅子から立ち上がって、僕は冷蔵庫に向かった。今さっき彼女が野菜室に仕舞ったばかりのキャベツを取り出す。胸がざわついている。まだ早いけれど、何かしていないと落ち着けそうにないから、夕食の準備を始めた。
「―――賢君、聞いて」
「嫌だ」
ばりばりとキャベツの表面の葉を何枚か剥がす。鍋に水を入れてコンロにセットする。スイッチを入れた。
「……キャベツ、先に茹でとくといいんだよね？」
「―――うん、そう」
京さんは露骨に話を逸らせようとする僕の言葉に付き合って、返事をした。
　膝の上で抱っこしている茜の背中をトン、トン、と優しく叩く音がしている。やがて、茜の寝息が聞こえてきた。
「―――寝ちゃった。お布団に寝かせてくるね」
京さんが言った。僕は頷く。

　―――この間の大輔とのやりとりに僕が後ろめたさを感じているせいだ。
　どうしてこんなあり得ない話をするのか、まず彼女から理由を聞くべきだとわかっているのにそうしない、できないのは、自分が冷静に聞いていられる自信がないせいだ。
　大輔が「来い」といい、京さんは「行け」という。

　―――大輔が僕を助けられるかもしれない、って……
　この間僕の意識を大輔が呼び返したことに彼女はまだ深く傷ついたままで、だからそんなことを言い出したのではないかと思った。

　やがて、京さんがキッチンに戻ってきた。再び椅子に座る音がした。彼女の指定席。僕はコンロの前に立ったままで、彼女を見ない。
「ねえ」
京さんはもう一度言った。僕は鍋から湯気が立つのを眺めながら黙っていた。
「―――大輔に会えば、賢君の症状が抑えられる可能性があるって聞いたの」

　聞いた、という言葉に、少なくとも京さんが思い詰めて言い出したことではないとわかった。
　少しだけほっとする。
「誰がそんなことを？」
キャベツの葉を鍋に入れながら僕は聞く。彼女にそんなことを話す人間が限られていることくらい、わかりきったことだけど。
「沢中先生」

　―――だろうな。

　曖昧な言葉で京さんの心を乱すことを僕が望まないのは、沢中先生もよくわかっているはずだった。
　それでもあえて彼女にそう伝えたのなら、先生は既にそれなりの確信を得ているのだろう。
　沢中先生がその判断に至った根拠―――思い当るのはやはりこの間の、大輔の声が僕をこちらの世界に連れ帰ったということだった。ならば、SIESTA―――いや、一時的に繋ぐ「花屋」の分析が、その根拠なのだろうと予測はついた。
　あの時、SIESTAが大輔なら僕を連れ帰ることができるだろうと判断した、その延長で見つかった可能性なのに違いなかった。

　散々足掻いた挙句、大輔という答えに辿り着くのか？

　―――沢中先生…もしそれが真実でも、僕はそのことを京さんに告げてほしくはなかった。
　勿論、そのことも先生は織り込み済みなのだろう。

　京さんが静かに言った。
「―――だったらあたしは、そうしてほしいと思ってるよ、賢君」
「―――大輔に会えって？」
キャベツを鍋から引き上げてステンレスのザルに移した。湯気で一瞬視界が曇る。
「うん」

　背を向けたままだから、京さんがどんな表情でそう言っているのか僕には見えない。
「本気じゃないよね、京さん」
「本気だよ。それが最善の策なら、そうするべきだと思った」
「嘘だよ」
「嘘じゃないもん」
それから少し沈黙があって、僕は言った。
「―――嫌だ。会わない」
「―――大輔に会っちゃったら、もうここに帰って来られる自信がないから？」
　その言葉に僕は振り向いた。
「大輔と―――離れられなくなっちゃいそうで、怖い？」
「京さん」
　京さんは椅子から立ち上がってこっちに歩いてきた。僕の前で止まる。
「―――手伝う」
「京さん」
　彼女は冷蔵庫の脇の野菜カゴから玉ねぎを取ると、皮を剥き始めた。
「だったらそれでもいい。この年で未亡人とか、なりたくない。―――まだ、バツイチの方がましかな」
洗った玉ねぎを今度はあっという間に包丁でみじん切りにしていく。速い。
「離婚なんかしない。嫌だよ」
「だったら帰ってきて。―――大輔のところへ行って、会って、帰ってくるの。それだけ」
「―――でも」
　それだけのことに、僕も貴女も翻弄されてきたんじゃないか。この間だって、ほんの一瞬の出来事に、京さんはひどく傷ついたんじゃないか。僕が、傷つけたんじゃないか。そんなに簡単なことじゃないじゃないか。

　『―――いっそ―――京と別れて俺の処に来い』
大輔の言葉を思い出した。あの時、僕の心を理解しているはずの彼が急にそんなことを言い出したのを不審に感じたけれど、もしかしたら大輔はすでにこの話を聞かされていたのかもしれない。だったら、あの強引さにも納得がいく。
　あんなことを言えば僕が悩むことを大輔はわかっていたから、あの後すぐに通話を切った。―――そう考えれば。

　―――大輔に会っちゃったら、もうここに帰って来られる自信がないから？大輔と、離れられなくなっちゃいそうで怖い？

　京さんの台詞を、僕は否定できない。
　僕が大輔に会うことで、僕の身体で起こっている異変の何がどうなるのかはわからない。
　ただ、会うだけで何かが変わるというのだろうか。ただ会うだけで、僕の内の何かを変えられるほど、大輔の存在が大きいのだろうか。わからない。でも、決して小さくはない。

　心の底で、僕はあの電話の後からずっと大輔に逢いたいと思ってる。思っているから―――会ってはいけないと思ってる。
「―――会いたくないんだ」
冷蔵庫から取り出した挽肉に胡椒を振りながら僕は言った。
「会ったらきっと気持ちが揺れちゃうもんね」
京さんは明るい口調で僕を茶化すように言った。
「―――そうだよ」
僕は言った。包丁の音が止まる。京さんが僕を見た。
「自分が今正しいと思っている選択に疑問を持ちたくない」
言って、僕の手も止まる。
「京さんと結婚したことを間違いだったと思ったことなんかない。―――でも、大輔と別れたことが正しかったのかどうか、今は確信が持てない。結果的に時々大輔と僕とのことでこうやって貴女を悩ませているのは事実だから」
　短い沈黙のあと、京さんが再び包丁を動かし始める。コトン、コトン、と小さな音が響いた。

　「……大輔のことを嫌いになる理由が見つけられないんだ。でも、京さんを好きだという気持ちと比べたくない。―――だから、会いたくない」
　誰かを選ばなければならないというのなら、僕はもう選んでいる。大輔のことは選ばないと決めて、京さんを選んだ。
　でもできるのはそこまでだ。多分どれだけ待っても、僕の中で大輔のことがどうでもいい存在になる日はこないだろう。
　一緒にいた時間も、破綻した瞬間も、そうしようと思えばいつでも同じようにはっきりと思い出せる。だから、彼のことを深く考えないことが僕の京さんに対する誠実さだと思う。
　でも、大輔に会えば嫌でも過去の気持ちに引き戻される。無理だし、駄目だ。そんなことは。

　調理する手を止めずに、京さんは言った。
「賢君、前に言ってたよね。『僕にはどうしても忘れられない人がいる。その事実は消えない。…消せないんだ』って。そのことも含めてあなただって受け入れてるつもり。だけど、まだそれが平気って思えるほどあたしも人間できてないから、こうやって意地悪なこと言っちゃう。―――でも、あなたが生きられるっていうことが、あたしにとっては一番大切なことだから―――もういいや。大輔にヤキモチ妬くの、疲れちゃった。賢君がこれだけあたしを大事だって言ってるのに、結局あたし自身がそれを疑い続けてるだけだもの。……勝手に疑って、勝手に傷ついてる。馬鹿みたい。賢君が大輔を嫌いになる理由なんかないこともわかってる。当たり前よ、大輔、いいやつだもん。―――あたしだって好きよ。いい友達。賢君のことになると、たまにカッコよくなるんだよね。あったまきちゃう」
　京さんが微笑した。
「だから―――賢君のことになると、あたしには勝てない」
　会いに行って、と彼女は続けた。

　「会え」と言われても。「来い」と言われても。―――「会いたい」と思っても。

　―――できない。

　言葉は出なかった。僕はキャベツで挽肉のタネを包んでいく。
　彼女の言葉を否定も肯定もできない僕は、ただ彼女の隣で黙って立っていることしかできなかった。




　　　　　　　　　　　　　　―　続く　―

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2019/02/25
一乗寺刑事、料理もできますよ。

背景画像は「Studio Blue Moon」様より頂戴いたしました。